南区の区域は大宮台地の南端付近にあたり、多くの遺跡が発見されました。
現在、その多くは宅地などになっています。思わぬ所で貴重な遺跡がまだ眠っているかもしれません。
区内で発見された遺跡・貝塚 | |
大谷場貝塚(南本町) | 縄文時代前期 |
広ヶ谷戸・稲荷越遺跡(広ヶ谷戸) | 縄文時代後期 |
明花遺跡(大谷口) | 縄文時代中期から後期 |
明花向遺跡(大谷口) | 旧石器時代から弥生時代 |
円正寺遺跡(太田窪から円正寺) | 弥生時代中・後期 |
白幡本宿遺跡(白幡) | 縄文時代から古墳時代前期 |
別所遺跡(別所) | 弥生時代後期から古墳時代前・中期 |
神明神社古墳(関) | 古墳時代 |
佐々目郷とは、内谷氷川社や沼影観音堂を中心として南区内谷、曲本、沼影、松本及び戸田市の一部のことを指しており、南北朝時代の建武2年(1335年)以来、足利尊氏により寄進され、以後鶴岡八幡宮の社領としてその重要な経済基盤となりました。応永元年(1394年)には、農民たちが鶴岡八幡宮の支配に対して反抗するという事件も起きています。天文6年(1537年)以後には、後北条氏により鶴岡八幡宮の所領として安堵されました。さらに、江戸時代には幕府直轄領などになりました。
徳川家康は、各地の由緒ある寺社に所領を寄進しており、そうした土地は朱印地と呼ばれていました。南区では、三代将軍家光により太田窪の守光院と大谷口氷川社に、朱印地が寄進されました。
江戸時代には交通路が整備され、中山道の宿場町として浦和宿が発展します。南浦和小学校の東側にある焼米坂(南区根岸)は、中山道を通る旅人が荒川を渡り最初につきあたる坂であり、ここに焼米を売る店があり名物になったことから、その名前で呼ばれるようになりました。また辻には一里塚跡があり現在では記念碑が立っています。江戸日本橋から六里(約24Km)の距離にあたることから、当時一里塚が築かれたものです。
●焼米坂
大正4年頃の焼米坂の写真。
江戸時代の旅人もこんな風景を見ていたかもしれません。
奥には人力車らしきものも見ることができます。